Jun’s blog

本の感想&書き抜きブログ

トポスの知 [箱庭療法]の世界 河合隼雄 中村雄二郎

 

おくるないことば

 

感想としては、言葉大事だよね、そうだよねってなるはずなんだけど、わたしがふらっと劇場にいこうかなぁとおもったのは、このトポスの知のp.178に「演劇というのは、場の世界だ」という話があって、頭の片隅に演劇の二文字が残っていた。そしてコワーキングスペースから塩ラーメン食べた帰りにカタリナスタジオがあって、今日、おくるないことば千秋楽という掲示をみた、ときた。100円でみれるときたので、覗いてみた、ときた。

 

さらに、時間を戻す。この本をとったのは、ふらっと三省堂書店の心理コーナーをみていた。そこに、「トポス」という文字が。そう、カウンセリングを受けたいとウジウジ考えていてそのひとつが「トポス心理療法オフィス」であったので、同じトポスの文字を見て、トポスとはなんだろう?と、その予行演習になるとおもい、この本を買って読んでいた。心理療法のうち、箱庭療法というものがあるらしい。挿絵にも引き込まれて、買っていた。

 

箱庭療法は、箱の中に砂が入っていて、ミニチュアも用意されている。その箱に、砂やミニチュアを置いて、創作するというものだ。

この箱庭をどう捉えるか。言葉ではない、場としての表現そのものであって、無意識的なところの部分までも表現しているといえるらしい。複雑さ、曖昧さ、抽象的な気持ち、想いを言葉にするのは普通の大人でも難しい。子どもや鬱の人、対人恐怖症の人ならなおさら。言葉に頼らない、表現しやすい方法である。

 

弘之とあいこのやりとり

.愛なんて存在するのか?

.みせてくれよ。これはりんごです。くらい誰もが確認できる形で、これは愛です。って。

.できないんだよ、だって、そんなもの実在しないんだから。

.お前が俺を愛してあるのなんて幻想だろ、愛なんて不可能なんだから。そういうことなんだ、俺たちは言葉に騙されていたんだ

 

このやりとりに、この一節が思い浮かんだ。

 

トポスの知p.200

そのとき、「言葉で言える」というその言葉とは、「説明言語」なんですね。説明言語というのは、なによりも明快に一義性をめざすことになる。しかし、本当は一義的なものは、言語じゃなくて、論理、概念であるわけですね。実はこれまで科学主義が言語にまで及んだために、説明言語こそが真の言語のように考えられてしまった。本当の言語はもっとイメージに富みシンボルに近いわけですね。

そういう点、箱庭は初めから多義性を持ったものですからね。

 

ああ、言葉で表現しようとおもって、ほんとうに豊かな言葉で、話しても、「説明」の枠を出ない。この呪縛からは、弘之は、脱することができなかったんではないか。

でも、わたしは、そこに愛は確かにあったし、新日本語の世界であっても、その場は、変わらぬ琴葉とユウであった。そこに、愛は確かに存在していた。そこに、説明はいらない。琴葉は旅立ってしまったけど。わたしには、希望はまだあった。その希望は、演劇の力であり、場の力だと、そう感じた。

 

もし、ジョージ・オーウェルの一九八四年の世界であったなら、そう、場をも支配するんだろう。そうなれば、終わり。四角い白い箱の中に、人間を入れて、生活をさせることが、本当の意味での支配になるのだろう。

 

 

 

いま、現代は、言葉の時代だ。

言葉が溢れかえっている。科学が進歩し、なんでも証明できるような錯覚をしているけど、そんな世界にはなっていない。みんな、愛とはなんだろう?生きる意味はなんだろう?って言葉で表現しようとするけど、本当のところは、空間に現れているのかもしれない。

 

これまで、人間は科学を発展させ、いかに説明性があるか、論理性があるか、示してきた。そうして、より効率的に、より合理的に、動いてきた。でも、違うかもって気づく人も増えていた。時間論だ。

さらに、その時間は、空間の中で起きていること。その空間的な場所が人間にとってどういう意味を持つか、その空間の捉え直しもまた必要なことなんだろう。私は、家にいると普通はいうけど、それは固定化された概念で。いや、札幌にいる、いやいや、世界に在るというのはどうだろう。この、世界に在るという感覚、感受性もあってよいのではないか、そうおもうのである。場所論への誘いである。

 

 

 

ツイートだけじゃ、伝わらないね。

 

 

 

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