失敗学実践講義文庫増補版 畑村 洋太郎
追及するとき、当事者としての心理と
監督官庁としての心理が
本質的な究明にならないことが多々ある。
どちらも、責任を追求され、辞任する
というのが、お決まりになってしまった。
そして、再発防止策は、大抵、
マニュアル作りで終わらせてしまい、
いつしかそのマニュアルも膨大な量に
膨れ上がり、風化され、繰り返される。
ちょっとした文章の、重箱の隅を
突くような行政と、言われた通りやれば
いいやとおんぶに抱っこの会社責任者。
再発防止策の根底まで触れることの大切さ。
男子という闇-少年をいかに性暴力から守るか エマ・ブラウン
我々は性暴力を女性の問題として捉えているが、少年や男性も驚くほど高い確率で被害に遭っている。
男性や少年たちもまた、想定される以上の感情的な親密さを求めている。
本当の意味で、少年が少年であることを受け入れるということは、実際にはこのような親密さを彼らは(多くの場合は性行為よりも)求めているのだと、彼ら自身が認めるようになることなのだ。
性行為を求め、性行為をし、性行為について自慢しなければならないというプレッシャー。
我々は親として、娘たちに伝えるのと同じように、息子たちにも、彼らの体は彼ら自身のものであり、彼らの同意なく他人が触れるべきものではないということと、彼らの身体上の自主権を侵害することは許されないということを伝える必要がある。
一番大事なのは、あなたを信じている。あなたのせいじゃない。そして、私たちは今でもあなたのことを愛している。と伝えること。
男の子だけが大人になるにつれ、感情的な親密さに対する欲求を捨てざるを得なくなっている
怒っているときに報酬が与えられる少年は、怒りを表現することを学ぶ。男性には常に性欲があると繰り返し聞かされる少年は、自分には常に性欲があるかのように振る舞うようになる。
彼らには、自らの男らしさに疑問を抱くことなく、少女や女性からの性的な誘いを断る余地がほとんどないのである。そして、他の少年や男性に暴行されたり、レイプされたりしても、自らの回復のためにそのことを認める余地もほとんどない。
セックスについて話すことができないなら、セックスをする覚悟ができていないということ。
従来の学校の規律制度は、誤った行いをした人に責任を否定し、説明責任を回避するよう促している。→ 修復的司法
彼女に、いいよ、と言わせる。
誠実に好意を示すことと、不快に思われることの境界線をどう見極めたらよいかで混乱していた。
彼女とセックスをしたという後悔ではなく、同じ気持ちではなかったのに、彼女にセックスをさせたという後悔です。
男子はなぜ女子に対し、無礼で威圧的なことを言ったり、お尻を叩いたり、胸を掴んだりするのだろうか?実は、それらの行為に女子の存在は全く関係ない。セックスが関係しているというわけでもない。それらは、男子がほかの男子に自らの価値を証明するための行為なのだ。
…………
性暴力は、男子から女子へ起こるものではない。男子に対する社会の考え方が、男子の性暴力への行動と駆り立てているのかもしれない。
障害をしゃべろう!下巻
生きるということはすっきりしない。
すっきりしたいから、言葉の中にみんな逃げ込む。
みんな、現実を片目くらいでみて、自分の中の観念の世界を生きている。
言葉に力を持たせすぎてはいけない。
言葉が、安く成り下がってゆく。
障害をしゃべろう!上巻
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ぼくらは、世間の価値観に支配されている。
自主的に生きているつもりが実はそうじゃない。
生きるとは依存すること。
自立とは、自分でなんでもできることじゃなく、依存先をたくさん持つこと。
依存症とは、信頼して人に依存できない病気
依存先が少ないからこそ、限られた依存先にどっぷりはまっちゃう。
多様性が排除される面と同時に、別の軸で、多様性を煽られる面もある。自分が個性のない、よくいる人間なんじゃないかって。
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今日の新聞に、伊藤亜紗さんのコラムが、
載っていた。
そこに、「利他」文理つなぐのりしろというタイトルで、その中で「若者は思いを伝えることも、受け取ることも難しくなっているのではないでしょうか。現代は利他が生まれにくい社会のように思えます。現代社会のさまざまな緊張感の中で、他者との関係性を築く経験が少なくなっているのではないでしょうか」というコメントが。
私のことなのかと思った。
他者に対する考え方の変化を感じる。自分と他人をきっぱり分けて、生きている。
利他、多様性、他者へ気持ちを伝える、受け取るというのが、難しいのは、なぜだろう。
不可逆的にお互いがお互いを侵蝕していくことを拒んでいるのかもしれない。
誰がために医師はいる クスリとヒトの現代論 松本俊彦
酒は人間をダメにする
でも、無くすことが良いことでもない
クスリもそう。
上手に使うということ。
犯罪も、本当の意味で悪い人間なんて
いない。加害者は本当の被害者。
辛く、苦しく、生きることをやめたい
頼る人も、信頼出来る人もいない。
だから、物、クスリに頼ってしまう。
つながりが希薄になってゆくいま
何を必要とするのか、思考し、行動したい。
非常に、美しい本であった。
モラル・トライブズ ジョシュア・グリーン
中絶の考え方、権利の考え方
なるほど、権利を振りかざすのは
オートモードの合理化でしかない。
個人の社会に、個人それぞれ自分さえ
よければいいと思う人間がいる社会。
私たち、彼らそれぞれが正しいとおもう
間の大きな衝突で、正しいことの合理化に
論理的思考、権利を使ってしまう。
こういったときは、マニュアルモードに
切り替えなくてはならない。
権利なんぞ、いくらでもいえる。
言った瞬間、議論は終わる。
自分たちの習慣の冷酷な現実を認め、
それを変えるよう最善を尽くすこと。
人間は、いつしか道徳とは遠い社会と
世界を創造してしまった。
〈責任〉の生成-中動態と当事者研究 國分功一郎 熊谷晋一郎
責任問題があるけど、責任そのものが形骸化というか、それが「責任」というのか?と疑問を抱いていた。それに、最後「中動態」の概念をもちいて、示していただいた。
責任とは、責任あるものへとなるものである。
その責任の対極に、「意志」がある。
意志は、能動で、どうも、強迫的に迫るものがある。あなたの考えは?どうしたいのか?と問われても、実際のところは支配的なものばかりでもない。
本書の質疑の中で、組織でも能動的ではダメだとわかっているとのこと。たしかに、能動受動で全て指示、命令するかたちはうまくいかない。
ひとつのキーワードとして「高信頼性組織研究」がある。失敗を許容する。犯人探しをしない文化。個人を罰しない。
逆に、自分が経験したことは全て包み隠さず話さなくてはならない。これは、実際なかなかできない。組織全体の問題として全員が受け止め、考え、応答する責任は課される。
今日、こんな失敗をしました。あんな失敗をしました。とネガティブなことも話す。と、褒められる。「ジャスト・カルチャー」
逆説的である。
「本気で失敗を減らしたければ、失敗を許さなければならない」