暇と退屈の倫理学 國分功一郎
産業は主体が何をどう受け取るのかを先取りし、あらかじめ受け取られ方の決められたものを主体に差し出している。
暇の中でいかに生きるべきか、退屈とどう向き合うべきかという問いがあらわれる。
気晴らしを巡る考察の末に現れる、人間のみじめな運命に対するパスカルの解決策は、「神への信仰」である。
退屈する人間は苦しみや負荷をもとめる、と。
定住によって人間は、退屈を回避する必要に迫られるようになったというのである。
フォードは生産性を向上させるために労働者をおもんぱかっているのであって、その逆ではない。
消費社会とは、人々が浪費するのを妨げる社会である。
浪費して満足したくても、そのような回路を閉じられている。
本当に恐ろしいのは、「なんとなく退屈だ」という声を聞き続けることなのである。私たちが日常の仕事の奴隷になるのは、「なんとなく退屈だ」という深い退屈から逃げるためだ。
人間にとっては十八分の一秒が感覚の限界である。
人間はとらわれていない、といいたいのである。なぜならハイデッガーに言わせれば、人間は密そのものを認識することができるし、蜜を蜜として受け取ることができるからである。
人間は他の動物に比べて相対的に、しかし相当に高い環世界間移動能力をもつ。
一つの環世界にひたっていることができない。おそらくここに、人間が極度に退屈に悩まされる存在であることの理由がある。
コジェーヴはアメリカの大量生産・大量消費社会のことを思い描いている。そこには我慢がない。望むものがすべて与えられる。しかも必要以上に与えられる。彼らには幸福を探求する必要がなく、ただ満足を持続している。そこには「本来の人間」はいない。これが「人間の終わり」だ。
人間にとって、生き延び、そして、成長していくことは、安定した環世界を獲得する過程として考えることができる。いや、むしろ、自分なりの安定した環世界を、途方もない努力によって、創造していく過程と言った方が良いだろう。
生物にとっての快とは興奮量の減少であり、不快とは興奮量の増大なのである。
性の快楽はこの安定した状態への復帰のためにあるのだ。
この快の状態は、退屈という不快を否応なしに生み出すからである。
あの場でハイデッガーが退屈したのは、彼が食事や音楽や葉巻といった物を受け取ることができなかったから、物を楽しむことができなかったからに他ならない。
ハイデッガーがそれらを楽しむための訓練を受けていなかったからである。
消費社会はこれを悪用して、気晴らしをすればするほど退屈が増すという構造を作り出した。消費社会のために人類の知恵は危機に瀕している。
もし、その記憶の消化を手助けしてくれる者が目の前に現れたなら、人はその人と一緒にいたいと願うのではないだろうか。
記憶をもつ、すなわち傷を負っている具体的な人間は誰かと一緒にいたいと願う。
昨日の夕方からいままでノンストップで読み終わった。
記憶は、他者をもって、消化される。